真説魏志倭人伝研究会主宰で北京大学医学部名誉顧問の故・岩元正昭先生は、『説文解字』(西暦100年頃成立の字書)に基づく古代漢字解釈の視点から「魏志倭人伝」を読み直しました。そこには、従来の歴史学による通説とはまったく違った倭人社会の様子が生き生きと描かれていました。
このサイトでは岩元学説のエッセンスを紹介するとともに、現在開催中の勉強会(月1回)のお知らせをいたします。
「都」は首都の意味?
それは宗廟があり王の子弟の食邑とするところ
魏志倭人伝に「南至邪馬壹國女王之所都」とあります。「所都」は従来「みやこするところ」と読み下され、「(女王によって)首都とされた場所」と解されてきました。そのため邪馬台國(原本では「邪馬壹國」)は倭国の首都であったり、邪馬台國そのものが日本の古代における名称であったり、卑彌呼は「邪馬台國の女王」であると言われたりもしています。
しかし『説文解字』は「都」字について「有先君之舊宗廟曰都(先君の舊宗廟あるを都という)」とし、さらに清代の段玉裁によって書かれた『説文解字』の解説書『説文解字注』では、『周禮』などの古典を引用して「都」を「王の子弟や公卿に与えられた領域(食邑)」と説明しています。それに従えば、邪馬台國は倭国の首都などではないことになり、むしろ女王はそこにいないということになるのです。
では、女王卑彌呼はどこへ行ってしまったのでしょうか。岩元学説はその答えを用意しています。
「行」は「Go To」の意味?
それはどこかへ行ってそこで止まること
魏志倭人伝の行程叙述には、移動する方角や距離・所要日数などにより、いくつかの「國邑」の相対的な位置が記述されています。その多くは方角を意味する「東」や「南」や
「東南」の字が、その方角へ「移動する」ことまで含んでいます。しかし稀に方角プラス「行」字の記述が見られます。この「行」字は実は「そこで止まる」ことを意味しているのです。
「行」字は『説文解字』に「人之歩趨也」と定義され、その義符は「彳」と「亍」とに分解されます。「彳」は移動を、「亍」は停止を司ります。方角を示す「東」や「南」や「東南」がその方角への移動をも含むなら、方角プラス「行」はそれまでの行程がそこで一旦終了することを意味するはずです。
倭人伝の行程叙述で、方角プラス「行」で示されている國邑はどこでしょうか。その國邑のあとに記される別の國邑は、もはや別のルートの話になっています。
魏志倭人伝の底本を書いたのは誰? そして何のため?
公孫氏が小国の存亡をかけて流そうとしたデマゴギー
大国魏と吳の間でコウモリ外交を続けていた遼東の公孫氏は、東夷と呼ばれた異民族たちの暮らす朝鮮半島や沿海州、そして日本列島までの地域の窓口にあたる遼東に実質的な独立国を築いていました。
自らの国号を燕とし、一時は皇帝も名乗り、元号を紹漢(漢王朝を紹ぐの意)とするほどの勢力でした。その栄華は景初2年(238年と言われる)に魏の司馬懿らに滅ぼされるまで30年以上も続きます。
「魏志倭人伝」にはその30年あまりの間に公孫氏が残したであろう情報がいくつも垣間見られるのです。しかし朝鮮半島の大きさを示した「方可四千里」や倭の位置を示す「當在會稽東冶之東」や倭人伝中の行程叙述などは事実そのままとは考えられません。これらは公孫氏が自らの勢力を誇大に表示するために記したデマゴギー記事の残痕であったと、岩元学説は考えます。
独立国を築いたとはいえ、公孫氏は魏と吳に対する二枚舌外交でしか生き残れない小国だったのです。
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