勉強会の予定

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令和4年度リモート勉強会

●年間テーマ:とことん魏志倭人伝

岩元先生の著作

『奇蹟の倭人傳

 今は、むかし・・・』

(通称「黄色い本」)に挑みます!

~第7回~

岩元学説の行程叙述解釈

・帶方郡からの3ルート

・「到・至」「自・從」の使い分け

・「里」の変尺率5分の3 ほか

令和4年7月16日(土)

​12:00~14:00

●Zoomによるリモート勉強会です。

 ・参加費 500円

申込及び参加費のお支払いには、オンライン決済サービス「Works Pay」を使用しています。​※クレジットカード払いのみとなります。

●会場での開催はありません。

 オンラインのみです。

●お問合せ

03-5999-0705

​070-2640-2982

​事務局:守山

moriyamatakayuki@outlook.jp

《令和3年の勉強会を振り返る》

●第9・10回勉強会レビュー(11/20 12/18)

魏志倭人伝を読む・総集編1と2

今年の勉強会を振り返りながら、来年の内容についてもご意見をいただきました。

今年は倭人伝をひと通り読むことができましたが、改めて読んでみると気になることはたくさんありました。それ自体が成果でもありましたが、スケジュール通りに進んでしまい、疑問を解決せずに終わってしまった気がします。そこで、来年は未消化のまま先に進まずに、その場でじっくりと掘り下げられるところまで掘り下げてみたいと思っています。

●第8回勉強会レビュー(10/23)

魏志倭人伝を読む・7

​ 外交叙述の後半、魏志倭人伝の締めくくりです。登場人物の行動・移動・目的などを確認しながら、全体の流れを時系列でみていきました。

 岩元学説の重要ポイントとなるのは、前回範囲の景初二年(238)十二月に出された明帝の「制詔」の内容を卑彌呼の帶方太守叙任とする解釈です。その目的は倭人を実質的経営者にして半島地域を安定させ、魏の戦力を高句麗に向けることでした。それに基づいて、正始四年(243)には倭から掖邪拘等が遣わされ(これを岩元学説では生口や短弓矢など戦利品を携えた業務報告と解釈)、同六年(245)には難升米に魏の軍旗である黄幢を与える詔勅が出され、同八年(247)に王頎が赴任してきたことに対して卑彌呼と狗奴国の男王が承諾せず(不和)非難するありさまであること(相攻撃状)が倭載斬烏越等によって伝えられると、魏は態度を明確にするため張政を派遣し「檄」を出します。また、卑彌呼が死去した後も新しい女王として壹與が立つと、張政はこれにも「檄」を出しました。魏の倭に対するこれら一連の対応が、後世の中国王朝による「倭の五王」の叙請につながるというのが岩元学説の考えでした。

 しかし「制詔」「相攻撃」「檄」などの三国志における用例を調べると、まず帶方郡の太守に卑彌呼が任命されるとする解釈は難しく、正始八年の様々な動きについては岩元説も従来説もどちらの解釈も可能ではあります。卑彌呼と狗奴国男王が戦争状態であり、魏がそこに張政という人物を派遣して仲裁したというのが従来説です。ただ、卑彌呼の死後の動乱に魏が首を突っ込まなかったことから、内政干渉をしない態度ははっきりしており、卑彌呼と狗奴国男王がどのような状態であれ、それに対して何らかの反応を示すとは考えにくいと言えます。

 また、冷静に見ると、難升米に黄幢が渡されることは正始六年には決まっているので、八年の張政の派遣と「檄」は卑彌呼と狗奴国男王の意思表明とは無関係に思われます。張政は八年の難升米と同様に壹與にも「檄」を出しています。「檄」で「告諭」する目的は、敵か味方かどちらにでもなりうる勢力を味方につけるためであることが、他の用例から推察されます。魏の意図は一貫しており、女王勢力を味方に付けようとしているのです。その目的は岩元学説で言うように半島地域の安定と考えられます。

 そのころの朝鮮半島は、帶方郡では太守弓遵が戦死し、北部では高句麗の侵略を受けていて情勢が不安定でした。また、弁辰伝には産出される鉄を韓・濊・倭が取り合っていたことや、弁辰(弁韓)と辰韓が雑居していたことや、倭と接していたことが記されており、入り乱れていた様子がうかがえます。そうした中で、倭人の難升米のような有望な人物に実質的な指揮権を与えて安定を図ろうとした可能性はあります。

 魏志倭人伝では遠く離れた東夷の倭人の女王を「親魏倭王」としたことが高らかに記され(制詔の文言まで明記されたのは異例)、それが魏朝にとって、ひいては三国志の主体である晋朝にとって素晴らしい出来事であったという論調を読み取ることは可能です。しかし実際に半島から列島にかけて多種多様な民族がどのような思惑で行動し、それに対して魏の現場担当の人物たちがどのように対処したか、見えるようで見えてきません。倭人伝や他の東夷伝、関係人物の伝などの客観的な解釈から、いろいろな可能性を探っていく楽しみがあります。

 次回、11月20日と12月の勉強会は、倭人伝全体を振り返りつつ、とりこぼしてきた部分にもスポットライトを当ててみたいと思います。

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Wikipedia「三韓」より

●第7回勉強会レビュー(9/18)

魏志倭人伝を読む・6

​ いよいよ外交叙述に入りました。今回の勉強会での範囲は景初二年六月と同十二月。たった半年の出来事であり、六月と十二月の各1つずつの出来事に過ぎません。しかし魏志倭人伝の問題がここにもギュッと詰め込まれている感じがします。その最たるものは次の3つに集約されるのではないでしょうか。

(1)景初「二年」という記述の意味

(2)「制詔」により卑彌呼に下された使命

(3)卑彌呼に下賜された「銅鏡百枚」とは何か

(1)はいわゆる「二年か三年か」問題。ちっぽけなようですが、二年であれば公孫氏が滅ぶ2カ月前に難升米が帶方郡に到着したこととなり、そのようなことが可能かどうかという我々の感覚的問題はさておき、その素早い外交が注目されるとともに、そこまでする目的は何なのかという謎が一層深まります。三年であれば魏志以外の史書とも整合し、また、遼東が平定されて中国大陸への外交ルートが開けたことから、難升米の帶方郡到着およびそこから洛陽までの案内についても理解しやすいという面がある一方、その年の十二月は明帝の喪中ということになり、新しく帝位についた幼い斉王曹芳によって「制詔」が下されるという無理難題に直面します。岩元学説では景初二年で十分に可能であり三年はやはりおかしいという見方です。

(2)は紛糾しました。岩元先生は「制詔」は皇帝による命令・任命であり、後漢書「禮儀志」によれば「誰々を何々となす」という一定の方式で発せられるもので、「制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守」とは卑彌呼を帶方太守に任命する主旨であると解釈します。この「帶方太守」は続く「劉夏」の役職として書かれているのではないというのです。中国の天子が蛮族に王や将軍などの職位を認めることは多々ありますが、いくらなんでも郡太守はこれ以外に例がありません。卑彌呼だけが郡太守に任命される(実際には難升米が帶方郡を治めると考えますが)というアクロバティックすぎる特別扱いを否定することはできるでしょうか。岩元先生からの挑戦状です。

(3)の銅鏡百枚は三角縁神獣鏡がそれであるとかないとか、その手の考古学を巻き込んだ議論です。景初三年の紀年銘鏡が出土しているため昔から熱を帯びてきた議論です。魏の年号を刻んだものとしては青龍三年(235年)、景初三年(239年?)、景初四年(240年?歴史書としては景初四年は存在しないことになっている)、正始元年(240年)の鏡が出土しています。しかしそれらの年号と、陵墓(古墳)に副葬される時期とは当然一致しないわけであり、年号よりもむしろどの時代の鏡がどの地域で出土するか、もっと言えば邪馬台國はどこかという所在地論争に議論の中心が戻ってしまうのです(前漢から西晋時代にかけての鏡は北部九州が中心であり、畿内にその中心が移動するのは4世紀)。ところで岩元先生は自らが考古学については門外漢であることを前置きしつつ、それでもいくらかの推察は可能としており、三角縁神獣鏡については公孫氏時代に公孫氏の息のかかった倭人國邑に授けられたものであるとの見方を示しています。

​ 次回の勉強会も引き続き外交叙述の後半部分の流れをじっくりと追っていきます。

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島根県雲南市加茂町 神原神社古墳出土

​三角縁神獣鏡 景初三年銘

●第6回勉強会レビュー(8/21)

魏志倭人伝を読む・5

​ 問題山積の第5パート。岩元学説ではあまり深入りはしません。ただし、侏儒國が女王國から4000里のかなたにあるということが明記されている点については、読み手を誘導する意図が見て取られると考えています。行程叙述の解釈では、邪馬台國=女王國が末盧國の南2000里に位置するとされ、現代の私たちが考える本州が、南に向かって倒立しているような地図を描くこととなりました。そこからさらに4000里方向というと、本州の最北端(倭人伝における観念上の地図では最南端)となり、侏儒國を青森に比定することとなります。もちろん、書き手が読み手に思い描かせたい観念的な地図です。その書き手とは公孫氏(の参謀)であり、書かれたものが底本となって魏の史官の手で受け継がれ、陳寿の手にするところとなった、という文献的推移(ストーリー・オブ・ブック)を想定しています。

​ 今回の勉強会では次回の外交叙述編に入る前に、これまでの流れを振り返りました。外交叙述は曹魏と親魏倭王卑彌呼及びその後継者との交渉を軸に伝えています。つまり、外交叙述より前の行程叙述や風俗叙述というのは、魏の交渉相手となるべき女王卑彌呼を説明するための一連の流れでもあったわけです。

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 倭人伝は「從郡至倭」ということで、「倭」という地域への行程を述べるところから始まりました。ところが、伊都國のことを述べたあたりで「女王國」なる概念がサラッと紹介されます。そして邪馬壹國について述べたところで女王の所在地が明らかとなります(岩元学説では「都」字の解釈から女王は邪馬壹國におらず、奴國にいると看破します)。そして風俗叙述のあとには女王共立への経緯が述べられます。つまり、女王とは何者か、女王國とはどのような場所で、どこにあるのか、それは魏にとってどのような意味を持つものなのか、それを明らかにすることが目的となっていったのです。

​ 伊都國について述べたくだりでは「有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐」と書かれていますが、「女王國」が何の説明も前触れもなしに唐突に現れたことに違和感を覚えるという人は少なくないと思います。これについては今回の勉強会で参加者の中から別の解釈が示されました。「郡使往來常所駐」という句が、突然出てきた「女王國」の説明になっているというのです。「邪馬壹國女王之所都」の「女王之所都」が「邪馬壹國」の説明になっているのと同じ構文です。そしてその場合、女王國と邪馬壹國は別々の概念になります。この貴重な視点が是か非かは、もう一度倭人伝全体を読み返してみることで、皆様も是非判断してみてください。倭人伝は面白いですね。

●第5回勉強会レビュー(7/17)

魏志倭人伝を読む・4

 

 3月から始まったリモート勉強会の5回目、原文解釈の第4パート、習俗叙述の後半でした。

​ このパートには「大倭」と「一大率」という倭人社会のシステムに関係するらしき重要なワードが含まれます。それぞれ特定の役割を担う役職のようなものと考えられますが、岩元学説ではいずれも帶方郡(公孫氏)が命名あるいは支配している官職と見ています。とくに一大率というのは中国にはなく、中国でいうところの「刺史のようなもの」と明記されているくらいです。岩元先生はこの点については「馬脚を現している」と言います。この一文を差しはさんだのは間違いなく魏の史官ということになり、すなわち底本として公孫氏の作った倭人伝を見ていることにもなるからです。

 大倭のほうは文字通り倭人の中での有力者と見られますが、これをして「監せしめ」ている主体はやはり帶方郡と考えられます。つまりこの範囲の叙述についても、岩元学説では公孫氏帶方郡における倭人に関する恣意的な記録である「第二次倭人伝」と見ているのです。

 ただ、公孫氏が第二次倭人伝を捏造した時代が西暦230年代と推測されるのに対し、陳寿が倭人伝(第四次)を含む三国志の編纂を成し遂げたのは280年代と言われています。半世紀ほどの乖離の中で、魏朝による第三次倭人伝の編集や、それ以外の情報の蓄積もあったはずです。陳寿の倭人伝にはデマゴギーではない実際の見聞や記録に基づく倭人の記録もあったと考えるのが自然ではないでしょうか。このあとのパートである卑彌呼の登場場面や外交叙述は公孫氏時代ではなく魏の記録に基づくものです。岩元学説では、それでも公孫氏によるデマゴギーは確かに存在したことを原文の解釈から力説し、デマゴギー記事による日本列島の位置と向きに関する認識は、15世紀に至るまで残っていたと考えます。混一彊理歴代國都之圖はまさにその証左だというのです。

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●第4回勉強会レビュー(6/19)

魏志倭人伝を読む・3

 

 勉強会の4回目、原文解釈の第3パート、習俗叙述の前半でした。

​ 東夷伝全体で、叙述内容を「概況」「社会」「歴史」と分類した場合のボリュームの割合を数量的に比較してみました。倭人伝は東夷伝の中で最も多い時数を費やしていますが、韓伝や高句麗伝もその他に比べるとボリュームがあり、倭人・韓・高句麗で全体の7割を占めています。倭人伝は行程叙述も含めた「概況」、習俗叙述を主体とする「社会」、魏との交渉を主体とする「歴史」のそれぞれで30%以上と、バランスよく書かれています。そのため、どこに比重を置いているかといった面での特徴はありません。

 また、「社会」叙述の内容は、他の民族や中国との類似性や相違を指摘するという点は他の伝にも見られる点であり、倭人伝に特異性はないように思われます。ただ、『漢書』地理志「粤」の条の構文を使って儋耳朱崖と結びつけた点は作為性とも受け取られます。

 この「粤」との類似性・同一性については、会稽に封ぜられた夏王朝の子孫の風習を受け継いで入れ墨をしているとか、貫頭衣のようなものを着るとか、禾稲苧麻を栽培するとか、矛楯木弓を使うといった諸々の習俗が、実際に倭人の一部や全体にあったと考えるか、あるいはそうではなくて、この部分はもともとの書き手(岩元学説ではそれを公孫氏と見る)がデマゴギーの目的で記載した情報であり、虚偽であると見るか、まだまだ議論の余地があるようです。また、よく読んでみると倭人伝のこの部分と漢書地理志の粤の条で非常に似たような文面でありながら微妙に違っているのは、類似性の指摘ではなくむしろ違いを指摘する意図があるのではないか、という考えも可能です。しかしそれでも「所有無與儋耳朱崖同」の一文は揺るぎなく存在します。

 もう1つ、そもそもこの部分は「日本列島(九州)の倭人」について述べたものではなく、「会稽の倭人」について述べたものに過ぎないとする考え方も提示されました。「倭人」の定義について、ここでも再考させられます。倭人伝を通して、倭人の定義がつきまといます。

 次回も引き続き「社会」の部門を読み解き、倭人伝全体での目的を考えたいと思います。

●第3回勉強会レビュー(5/15)

魏志倭人伝を読む・2

 

 勉強会の3回目、原文解釈の第2パートにして、さっそくたくさんの取りこぼし(未消化の部分)が出てきています。

 前回からの議論の続きで、「倭人」という語あるいは観念が漢籍でどのように扱われ、どのように魏志倭人伝に継承されているかという問題について、参加者の大山氏から詳細な文献研究の発表がありました。

 そのあと、行程叙述に関する岩元学説での考え方については事務局より説明し、邪馬台国まで進みました。岩元学説では伊都國から奴國と不彌國が放射状に記載され、その次に記載される投馬國は帶方郡からの行程(南に水行二十日)、また邪馬台國も帶方郡からの行程(南に水行十日と陸行一月)であるとして解釈されます。つまり行程叙述は事実上3本の行程を描いていると言えます。この3本の行程は、「倭人」との交渉を中国人(漢、魏、公孫氏)がどのように展開していたかを示すとともに、倭人社会に少なくとも3つのグループが存在していたことを示唆するものです。

 倭人伝原文の解釈では、このあたりから、「女王國」だの「女王」だの「世有王」だの「其余旁國」といった語句の定義がよくわからなくなり、またそれらの定義が重要な意味を持ってくるような気がします。実際に各時代の「倭人」や日本列島の人々の社会がどのようなもので、漢籍ではどのような側面がどのように描かれているのかを、そうした言い回しから探っていくのが文献史学の醍醐味かもしれません。俯瞰的な視点を忘れないように進めていきます。

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●第2回勉強会レビュー(4/17)

魏志倭人伝を読む・1

 「倭人」の定義に関する議論に多くの時間を使いました。漢書など先行する漢籍を踏まえた上で、陳寿がどういう意図でこの条を立てているのか、非常に興味があります。それによって、私たちが古代の日本の歴史を考えるためのヒントをどれくらい倭人伝から得られるのかが変わってもくると思うからです。

 倭人伝が中国の歴史の一部として語られている限り、それが教えてくれる日本の歴史の内容は、案外少ないのかもしれません。逆にそこから、古代の日本がどれほど自由なありようをもっていたのかが浮かび上がる期待もあります。陳寿など中国(中原)の人々にとって、「倭人」は航海術にたけ、自然そのままの山島に依拠して暮らし、入れ墨をし、自由な海人族として流動するボーダーレスな人たちとして捉えられていたのかもしれません。倭人はいにしえの呉の太白の末裔であるかのように見えました。倭人には確かにそうした一面があると思われます。これは「日本人」のイメージとは異なります。

 ところが、行程叙述を見ていくと、それだけでは腑に落ちない面も見えてきます。たとえば奴國は二万戸、邪馬台国は七万戸を擁すると書いてあります。その数が実際の数かどうかは別として、陳寿らによるそうした認識は、流動する倭人のイメージからはだいぶかけはなれた、一定規模の定住民のイメージではないでしょうか。さらには、そうした人々の一定範囲を代表する者として、魏朝は卑彌呼を認識しています。彼らの中で、定住する倭人と流動する倭人とは別々のものではなく、何かしらの共通点を持った同じ民族なのです。女王に属さない狗奴国でさえ、倭人(倭種)であると認識されているのです。その共通点を、魏志倭人伝の文面からどのように読み取ったらよいのでしょうか。これからのテーマです。

 さて原文解釈ですが、冒頭の文章からして、文ごとに区切る(=句読点を付ける)のが困難です。最初の1文を「倭人は帶方東南大海の中に在り、山㠀に依り、國邑を為す。」で区切ることと、「從郡至倭~」からは新しい文になるとする解釈については異論はないでしょうが、問題はその間の「舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」をどう区切って読むかということです。

 まず「舊百餘國」は1文なのか。通常の解釈では「ふるくは百あまりの国があった」と「が・あった」という述語を補って1文としています。岩元先生は「舊」を「前の前の時代=前漢」としていますが、「百あまりの国があった」という点については従来説と同じです。

 もうひとつの問題点として、伊都國の叙述部分にある「世(丗)有王皆統屬女王國郡至往来常所駐」の解釈があります。「世(丗)」はどういう意味か。「王」はどの国の王を意味するのか。「統属女王國」は「女王國を統属する(まとめてしたがえる意)」なのか、「女王國に統属する(まとまって従属する意)」なのか。

●第1回勉強会レビュー3/20

オリエンテーション

~魏志倭人伝を読むために

 

​令和3年初回のリモート勉強会では、古代史研究における魏志倭人伝の位置づけを確認しました。魏志倭人伝は、中国の正史のラインナップである「二十四史」の中では、「三国志」>「魏志(魏書)」>「巻三十烏丸鮮卑東夷伝」>「東夷伝・倭人条」という位置づけになります。しかし二十四史だけが歴史ではなく、歴史全般のなかで位置付けるとすれば、右(スマートフォン版では下)の概念図のような位置づけになると考えます。​

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●魏志倭人伝原文を7つのパートに分けて解釈していきます

 

(第1パート)4月予定

倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濵山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家 

(第2パート)5月予定

南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里 

(第3パート)6月予定

男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會稽斷髪文身以避蛟龍之害今倭水人好沉没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在曾稽東治之東其風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髪屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或骨鏃所有無與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體如中國用粉也食飲用邊豆手食其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒己葬擧家詣水中澡浴以如練沐其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹

(第4パート)7月予定

出眞珠靑玉其山有丹其木有柟杼豫樟楺櫪投檀鳥號楓香其竹篠簳桃支有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味有獮猴黑雉其俗擧事行來有所云爲輒灼骨而ト似占吉凶先告所ト其辭如令龜法視火拆占兆其曾同坐起父子男女無別人性嗜酒〔割注:魏略曰其俗不知正歲四節但計春耕秋收為年紀〕見大人所敬但搏手以當跪拜其人壽考或百年或八九十年其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妬忌不盗竊少諍訟其犯法輕者沒其妻子重者没其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服收租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大率儉察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣京都帯方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傅送文書賜遣之物詣女王不得差錯下戸與大人相逢道路逡巡入草傅辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾 

(第5パート)8月予定

其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐暦年及共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年巳長大無夫壻有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傅辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里 

(第6パート)9月予定

景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬装封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印靑綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹〔割注:臣松之以爲地應爲綈漢文帝著皁衣謂之弋綈是也此字不體非魏朝之失則傅爲者誤也〕絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五十斤皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也 

(第7パート)10月予定

正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆物倭王因使上表荅謝詔恩其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木𤝔短弓矢掖邪拘等壹拜率善中郎將印綬其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斬烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔靑大句珠二枚異文雜錦二十匹